歴史
ブラフクリニックのルーツは、横浜の外国人居留地に1863年に設立されたクリニックにまで遡ります。その後、オランダ海軍病院との統合を経て、旧ブラフ病院が山手町82番地に建設されました。
現在の当クリニックはこの場所にあり、外国人居住者や日本人居住者など、コミュニティ全体に質の高い医療を提供する使命を継続しています。
ブラフ クリニックの沿革
1863年(文久3年)横浜パブリック病院創立
ブラフ クリニックの前身ブラフ ホスピタル(山手病院)はその起源を1863年にさかのぼり英国人医師ジェンキンズが当時外国人の居留地であった現在の中区元町附近に横浜パブリック病院を設立したのが始まりであるといわれています。しかしこの病院は3年後に経営不振のため閉鎖されました。
1866年(慶応2年)
横浜パブリック病院が閉鎖されたので医療に不便を感じ今度はオランダ人医師が中区山手町の現在のクリニックに近い地点に小さな病院、即ち診療所を開き外国人居住者の治療にあたりました。
1867年(慶応3年)横浜一般病院発足
外国人居住者の数が次第に増して来て医療施設の拡張の必要性を感じた英国領事が接渉に当りその結果オランダ人のグループは自分達の診療所を外国人居住者一般に提供し横浜一般病院と名づけました。これが後にブラフホスピタル(山手病院)となります。
1878年(明治11年)伝染病隔離病院設立
その後横浜に住む外国人の数がふえるにつれて横浜一般病院はその土地を拡大して建物の改築を行い医療施設として充実して来ました。この時代から病院の運営は英国領事を頭とする在住各国人の代表から成る理事会があたり、院長として各国の医師達が貢献しました。
1878には当時の神奈川県知事が理事会に後に中区中村町1299番地となった1863の土地を永代貸借契約により貸しあたえ、そこに伝染病隔離病院を設立することを許可しました。この病院は山手町82番地の病院とは別のもので後に関東大農災によって全市が崩壊した時一般病院がこの地に仮の建物を建てて移転しました。
1923年(大正12年)中村町に臨時移転
関東大震災によって山手町の一般病院は崩壊、中村町の借地に仮の病院を建てて移りました。
1937年(昭和12年)山手町に再建・移転
昭和10年頃から外国人居住者の間に山手町82番地に横浜一般病院を再建する運動が活発化し遂に1937年に同地に地上3階地下1階の鉄筋コンクリートの病院が完成し、中村町の隔離病棟も共に新築の建物に移りました。中村町の土地の借地権は日本政府の承諾を得てやはり同じく外国人の居住者のために開設されている横浜インターナショナルスクールに譲渡されました。関東大震災後から1947年(昭和22年)まで一般病院の運営はフランシスカン マリア修道会の手にゆだねられ市内の外国人開業医達の入院施設としては唯一のものでありました。第二次世界大戦中は日本の帝国海軍に占 されていた時もありました。
1945年(昭和20年)一般病院外国人居住者達に返還
1945年終戦後、病院は外国人居住者達に戻され過去10年間看護婦達を常に送りつづけて来たフランシスカン マリア修道会によって病院としての機能を復しました。
1948年(昭和23年)新理事会発足
横浜在住の英国、アメリカ、フランス、オランダの各領事達が会合し理事会を結成して病院の運営を修道会から引継ぎました。
1950年(昭和25年)横浜一般病院からブラフ ホスピタルに改名
法の改正により一般病院とは100床以上の病院に限る事により、“ブラフ ホスピタル”と改名しました。そして1951年に院長としてアメリカ人モートン医師が就任、看護婦も修道尼達から日本人の看護婦に変りました。
1965年(昭和40年)新館増築
1965年には3階建の新館を増築、それ迄地下にあった外来がその一階に移転し2階、3階に病室がふえました。
1981年(昭和56年)ブラフ ホスピタル閉鎖
新館増築後病院の規模は拡大され従業員の数も増えましたが一方海運界の著しい業務上の変化に伴ってそれまで依存度の高かった船員患者が急減し、同時に航空界の発展に従い外国人居住者達も長期治療の場合は自国に帰る傾向が強くなりましたので外国人のみを対象として来た病院経営は困難におちいり、遂に9月30日をもって閉鎖、従業員は全員解雇になりました。
1982年(昭和57年)労働争議和解
病院閉鎖に伴い労組は医労協の支援を得て争議に突入10ヶ月の交渉を重ねた後神奈川県労働委員会の調停で8月和解が成立、労組は病院を明渡しました。
1984年(昭和59年)土地を売却・診療所プランに変更
労働争議和解後、山手町82の土地に等価交換によってマンションを建築、その一階にクリニックを開設するという建築案の許可を県と市から与えられました。しかし横浜雙葉学園をはじめ附近の住民の反対にあい、一年を経過にしても合意に達することが出来ず遂に1984年(昭和59年)神奈川県医療整備課の仲介でマンションプランを変更し資金調達のために所有の不動産を流動資金に替えること、即ち1.253坪の土地を雙葉学園に売却することを決定しました。6月に土地の売却を完了し残存のブラフ ホスピタルの建物を解体しました。
1986年(昭和61年)ブラフ クリニック開院
200坪の土地をクリニック用地として保存したのでそこに地上2階地下1階のクリニックビルを建築、5月に英国人医師を迎えて診療所が発足しました。然し半年の間に外国人居住者達の間に同医師はブラフ クリニックには不向きであるという苦情が立ちはじめ、外国人だけに限られた患者数も減る一方であったので理事会は同年12月同医師との雇用契約を解約しました。
1987年(昭和62年)ブラフ クリニック再開 健保診療開始
理事会は後任の医師をやはり英国から招くべきか否かについて外国人住民達の代表者と討議した結果、彼等の意見に従って英語の堪能な日本人の医師をクリニックに迎える事に決定、そして同時に日本の健保診療も開始することにしました。そこで明石恒浩医師の着任を待って七月からブラフ クリニックが再開されました。